昭和六年(1931年)、つきじ治作は初代総料理長兼店主、本多次作により創業されました。それまで各地で幾多の料理店を成功させ、「戦前日本の割烹王」とまでいわれた本多次作が、満を持しての東京進出でありました。
初代総料理長本多次作は、非常に豪快な人柄で、慶び事、人を驚かせる事が大好きでした。
つきじの山水に見る事ができる巨大な石灯籠や輪塔は、本多次作がその大きさに目を付け、各々が夫婦(めおと)になるよう各地から運ばせた物です。中でも玄関脇の「吃驚土瓶(びっくりどびん)」は、創業当時、土瓶で水たきを給していた事に由来し、本多次作が信楽の窯元に焼かせた物だといわれており、搬入の際、新聞に載るほどの大騒ぎになったと記録されております。吃驚土瓶は、現在でもつきじ治作のシンボルとしてお客様にお喜び頂いております。
東京進出にあたり、本多次作は、東京人の味覚、江戸前の味にこだわりました。東京で自分の店を成功させるためには、東京人の味覚に合った物を提供しなければならないと考えたのです。そのため、自分以外、九州の料理人は一人も使わず、東京で自らが見込んだ料理人だけを採用したのです。それは、江戸前の料理と自らの料理の違いを知り尽くした「料理人 本多次作」ならではの選択だったといえるでしょう。
つきじ治作創業
江戸の料亭文化
江戸に料理屋と呼べるような店が登場したのは、江戸も中期、明和年間(1764~1772年)だといわれています。それまでは酒宴といえば吉原しかありませんでした。続く安永から天明にかけて、深川、浮世小路、向島、中州等に次々と名店が創業し、多くは武家階級に接待の場所として利用されました。
本多次作は東京進出にあたり、大川(隅田川)ぞいに店を構える事にこだわりました。これは江戸時代から明治、大正、昭和初期を通じて、大川が交通路として大きな比重を持っていたからに他ならず、江戸時代の高級料亭は、殆どといって良いほど大川沿いに店を構えていた事をよく知っていたからで、江戸の料亭文化に対して深く憧憬の念を抱いていたからに他なりません。
江戸時代が始まった頃、江戸の食文化と服飾文化は関西に劣る物とされていました。それは、江戸の殆どが新興開発地で、近隣諸国からの流入民で拡張していったことに由来します。しかし、江戸も中期を迎え、人々の暮らしが安定してくるにつれ、徐々に遊食の文化に目が向くようになっていきました。
栄枯盛衰そして現在
昭和6年、折しも万宝山事件、満州事変が起ったこの年に創業したつきじ治作は、通人の間でまたたく間に評判となり、大盛況となりました。これに意を得た本多次作は日本料理を引っさげて、遠く大陸まで手を伸ばす事となりました。
戦時中、つきじ治作は石川島造船所の社員寮として供出されていました。
昭和26年、本多次作は長谷敏司の元を訪れました。戦前より親交深く、師と仰いだ事もある大先輩の悲願を聞き、敏司の心は大きく動かされます。そして敏司はつきじ治作再建を決断します。
長谷敏司の工面した資金で治作が買い戻される一方、本多次作は自らの嗜好に合った調度品を整え、かつての料理人や仲居を呼び戻し、開業準備を整えました。そして、昭和26年9月18日、新生つきじ治作が再開される事となったのです。
つきじ治作は、開業後、たちまちのうちに往年の人気を回復し、その繁栄が今日の礎を成しています。
創業の人、本多次作は食文化という一事に於いて、心から人々を楽しませようとするエンターティナーでありました。長谷敏司は人心に厚く、日本の文化を心より愛した人物でありました。
創業以来80余年、その心を忘れる事無く精進してまいりました。今後とも皆様のお引き立てを戴きますと共に、ほんの一時でもお楽しみをいただければ、心よりの幸いでございます。
参考文献:大江戸ものしり図鑑 花咲一男監修 主婦と生活社 / 昭和の東京 石川光陽 朝日新聞社